社会活動:NPO法人西山文庫 
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  (ただいま更新中) 下記は、「西山夘三の少年時代の紹介記事
 

 

  少年西山夘三の漫画/希代の研究者がもつ絵心の原点
 西山夘三は建築を学ぶ前に多彩な漫画・劇作を書き残している。そこから垣間見られる少年・青年期の人物像は魅力的である。
 最初の作品は、日米未来戦戦記『赤城隼人』(78頁)という戦記物語で戦況の展開につれて変化する両軍の軍艦隊形を挿絵で描いている。後年の司馬遼太郎著『坂の上の雲』をほうふつとさせる。弱冠13才の作である。翌1925年には、長編1本、短編5本を書いている。作家なみの生産量だった。西山は、「字や文章を書くのが苦手でしかも下手」と書いている。宿題の日記も嫌いで、評価はいつも一重丸かバツであったらしい。ある時、作文でテーマがなく以前に書いた日記「途中で煙の吹き出したコー
ルタールの実験」を手直して出すと三重丸で返ってきて、「へ〜ん、こんなものがよい作文か」と病みつきになったという。
 漫画では、クラスの3、4人の友達に呼びかけてひそかに「漫画倶楽部」をつくっている。『漫画研究』の「顔面の部」には、実に多くの顔を描き、舊のまんが、西洋の漫画、現代の漫画、線画、歴史書中にみる特種の顔の漫画の5種類に分け、新聞、
雑誌等から表情を書き写してコメントもしている。随所にみられるこれらの西山少年の姿は、後年の研究者の片鱗をうかがわせるものでたいへん興味深い。資料との出会いは、整理作業にかかわってきた私の至福の時となる。
 京大退官後に、三高生活を『あゝ楼台の花に酔う』に、そのあと『大正の中学生』『安治川物語』と自分史を遡って書き出版した。それらの多くはすでに中学生や高校生時代に用意されていたわけである。西山は膨大な写真を残しているが、研究論文には写真を用いなかった。図に書き起こし、漫画や図版を描くことを一生続けた仕事人だった。また、それは数少ない息ぬきであり、大きなたのしみであったことを感じることができる。
(文:安藤元夫/リビングデザインOZONE o-cube2000年11月1日号掲載文の要約)
 
 
 

 




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